今村夏子「むらさきのスカートの女」

こんにちは!小町です。
前回の紫陽花から、むらさき連想はでどうでしょうか。
今回は今村夏子「むらさきのスカートの女」です。
第161回芥川賞受賞作。
ミステリでもホラーでもないのですが、違和感の連続にゾクッとする感覚になること間違いなし。
あらすじ
「わたし」は近所で見かける「むらさきのスカートの女」が気になって仕方がない。彼女とともだちになるべく行動を観察し、同じ職場で働くように仕向けてみるのだが―――。
信頼できない語り手
都市伝説的な「むらさきのスカートの女」に執着して観察している出だしなのですが、徐々に私たち読者は、違和感に気付いていきます。
そう。「わたし」の方が明らかにやばい!
そっちが気になるよ!(笑)
ミステリーの手法に「信頼できない語り手」というのがありますが、(若干違うかもしれないけど)認知のゆがみを利用したぞわっとですよね。
そもそもの話、
うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。*1
うちの近所の公園には、「むらさきのスカートの女専用シート」と名付けられたベンチまである。*2
と序盤から紹介されていますが、
「わたし」以外、「むらさきのスカートの女」って呼んでる描写がないんです。
語り手の異常性に気付いていくうちに何が虚構だったのかわからなくなる……
表紙もよく見て。
むらさきじゃない!
最後「何色の何を穿いていたのか、わたしはどうしても思い出すことができなかった」とか言ってますもん。
一人称語りなのに自分の話をしないので第三者視点のような感じがします。
それが自他との境界の曖昧さにつながっていたり。
普通、小説って読み進めていくと謎が明らかになったり、共感していったりするんですが、この作品は終わりに向けて「わたし」と乖離していくような気さえして。
他の方の考察とかですと、わたしと同一人物だとか、実在しないのではという説もあるようですが、それは個人的には否定。
小説中で、「わたし」以外の人物たちは「むらさきのスカートの女」を「日野まゆ子」とちゃんと認識してコミュニケーションをとっていますよね。
むしろ存在感がないのは「わたし」の方。
「わたし」は誰にも気づいてもらえないのです。
「わたし」自身でさえ、自分のことを認知できていないというか、客観的に見ることができないんでしょう。
だから、家賃滞納しても無銭飲食しても、ものを盗んでも罪の意識が欠落しています。
「むらさきのスカートの女」については、その異常さを事細かにメモしているにもかかわらず自分のことには一切無頓着なのです。
孤独と承認欲求
さて、自称「黄色いカーディガンの女」は「むらさきのスカートの女」とともだちになりたいらしい。
服の上下でもありますし。黄色と紫は補色の関係ですね。
※補色=色相環上で反対の位置にある色。組み合わせると引き立てあうが、混ぜると無彩色になる。
……意味深。
その割には、自分のシナリオ以外のところで彼女と接触したり助けたりはしません。
本当にともだちになりたいか……?
多分違うんでしょうね。
「むらさきのスカートの女」はいろんな人に似ているところがあると「わたし」は語っています。
おとなしかった姉、タレントに転身した元フィギュアスケート選手、画家になった小学生時代の友達、危険人物だった中学時代の同級生、漫画家兼ワイドショーのコメンテーター、前に住んでいた町のスーパーのレジの女の人……
そのどれもが自分より弱い(劣っている)と無意識で思っている存在なのかなと思いました。
かつ、憧れるような部分も持ち合わせている。
だからともだちになりたいという感情と同一視しているのかもしれません。
ただ話しかけられたら拒否しているところを見ると、手を差し伸べられることに対しては嫌なようですね。
自分より弱い誰かを助けてあげることで、自分を見てもらいたいという一種の承認欲求があるのではないでしょうか。
先ほど述べたように「わたし」は自分自身のことには疎いので、自分では自分のことがわかっていません。
自分をよくわかっている人は自ら変わろうとしますが、そうでない人って他人に変わってもらおうとします。
「わたし」は「むらさきのスカートの女」に執着していたのではなく、自分のために変わってくれる「誰か」を求めています。
人間は他者との関係で相対的に形成されると私は思います。
この「わたし」は他者との関係の希薄さを体現しているのかもしれません。
今村夏子『むらさきのスカートの女』,朝日新聞出版,2019年6月。